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音楽に耽りながら、考える

朝7時30分。マンションの駐輪場で奥さんと娘を送り出し、自分も簿記セットが入ったリュックを背負って駅に向かう。

駅前のスタバで過去問を開いて、わけも分からずがむしゃらに問題集に向かっていたあの頃の、古い知識を呼び起こす。

9時になったら図書館の学習ブースへ移動して再開。

途中、息抜きに健康保険組合などの関係各所へ手続きの問い合わせ。

 

机はガラス窓に面して外の様子が見える。

席に戻って仕訳を切りながら、ふと目を上げたら街路樹が風に揺れていた。

クスノキだ。そのクスノキの並木を縫って、アオスジアゲハが舞っていた。

 

クスノキは6年間通った小学校のシンボルツリーでもあり、校門を入ってすぐのところに大きく枝を張っていた。

そのクスノキから何十メートルか離れた校舎の3階の外壁に、アオスジアゲハの蛹を見つけたことがある。

食樹としていたクスノキを離れて重い体で一生懸命に這って、校舎の壁をよじ登り、蛹化したのだ。

どうしてもそこで羽化して、翅を広げたかった理由を知りたかったが聞く由もない。

蝶好きな先生は、食樹から離れる習性がある可能性を話してくれた。


在籍していた科学クラブはその蝶が大好きな先生の指導で、みんなでヤマトシジミの飼育日誌をつけた。

十数センチの厚さにまで達した飼育日誌をもとに、みんなで展示パネルを作った研究発表は県知事賞に選ばれた。

それ以来、大人になった今でも、蝶マニアでもないのに、蝶が飛んでいると目で追ってしまう癖が抜けない。 

引っ越してきて以来、この並木道はアオスジアゲハの絶好の観察場所だ。

 

春型だろうか、小ぶりな翅でひらひらフワフワと舞う個体をなんとはなしに、見つめ続けた。

風に揺れるクスノキの葉の明るい色と、アゲハチョウほど飛翔力は強くないが華麗にアオスジアゲハ。

高校生のときにプレイしたテレビゲーム『ファイナルファンタジー7』のBGMでヒロイン「エアリス」のテーマが頭に流れた。

目まぐるしく動く世の中で動きを止めていることに申し訳なさを感じつつ、穏やかな時間をかみしめた。

この穏やかな時間にもう少し耽りたくなって、ヘッドフォンでドビュッシーやらラベルやらのピアノ曲を流しながら問題を解いた。

 

ドビュッシーは有名なアラベスクのほか、月の光、ベルガマスク、亜麻色の髪の乙女など、検索すれば誰でも一度は聴いたことがあるだろう名曲が次々にヒットする。

ラベルもオーケストラのボレロが有名だが、水の戯れ、亡き王女のためのパヴァーヌ、クープランの墓など、とても美しい楽曲がまさに人類の至宝として目の前にあらわれる。

僕自身は全く弾けないのだが、合唱(混声も男声も)を中学3年生からつい10年位前までやっていて、学生時代に音楽大学ピアノ科の学生と仲良くなり、色々と教えてもらったのである。

 

目の前の情景に、頭の片隅にこびりついている楽曲が自動再生されることは、よくある。

先日チャゲアスについて思い出をつづったが、前述のゲームミュージックもそうである。

人が書いた文章に楽曲へのオマージュがあれば、興味が湧いてそのルーツを調べてしまうこともある。

今の時代は、クオリティさえ問わなければ、Youtubeで音楽がタダで手に入ってしまうし、逆にアーティストが動画サイトで積極的に頒布している。

ここではその良し悪しを論ずるのではなく、自分の心が弱っている状況だとか、わりと時間に余裕があったりすると影響を受けやすいということを綴っておきたい。

 

大学で男声合唱サークルにどっぷり浸かった僕は、社会科学系統の学生だったにもかかわらず、音楽の理論書「楽典」を持ち歩いていた(もっと学部の勉学に打ち込むべきだったと、今でも後悔している)。

だからというわけでもないが、楽曲にとどまらず、その楽曲が生まれるに至った背景やそこからくる作曲者の意図、作曲の設計・構図など、楽曲分析(アナリーゼ)とは言わないまでも、探りたくなってしまう。

 

凝り性が過ぎると、あまりいいことがない。

だがこれもまた、いっそのこと、沼に肩まで浸かって元気に泳いでみることにすると決めている。