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「一人で死ね」は絶対にだめ

娘は、しゃべらない。

おそらく、口を開くと歯茎が痛いのだろう。

かわいそうに。

 

昨日は喜んだエネルギーゼリーも今日はちっとも飲まなかった。

育ち盛りのくせに、食欲が全くない。

 

そして今日も朝から昼まで自宅保育。

奥さんが出かけると「おかーさーん、だっこー!」と20分以上もパニック泣き。

そんなに泣いて歯は痛くないのか。疲れる。本当に疲れる。

 

暴れる娘を抱き上げて、見晴らしの良い非常階段から新幹線やその他の電車を眺めさせる。

いつもならそこで直る機嫌が今日はダメ。

町中に「おかーさーん!」と娘の泣き声が響き渡る。

 

平日朝に、泣き叫んで暴れる乳幼児を非常階段で抱っこする父親。

だめだ、これではまるで虐待だ。

 

昨日のように迎えに呼ばれるリスクを考えて、給食が終わるタイミングで保育園に預ける。

別れ際に、娘が泣く。

もはや泣き疲れたのかいつものギャアァーではなく、フッフッフッと噛み殺してポロポロと涙をこぼす。

保育士に抱っこされてもシクシク泣いていた。

 

首都圏は夕方に雨の予報。お迎えの時間帯に、雨。

雨の中を、よだれでべたべたの娘をベビーカーに乗せて歩くのか。

 

どうせ素直に乗ってくれないのだ。憂鬱だ。

もしかしたらそんな元気ないかもな。

 

 

 

なんてことを考えながら、心療内科へ。

6月末まで自宅療養とするための診断書をもらうためだ。

 

逆に言うとこの充電期間もあと1ヶ月ということだ。

それまでに娘のイヤイヤがなくなったらなぁ。

 

 

 

 

そんなことをのほほんと考えている間、待合室のテレビではワイドショーで川崎の事件がずっと流れていて、僕は秋葉原の事件を思い出していた。

 

あの時僕はブラック企業から抜け出すことに必死で、でもブラック企業を抜け出すに十分な経験やスキルがブラック企業で積み上げることなどできるわけもなく、「20代で、すでに人生詰んだなー」というのが心の中での口癖だった。

 

秋葉原の加害者はたしか、県で一番の進学校を出ながら大学には進学せず、不況による派遣切りの煽りを受けて犯行に走ったと記憶している。

この秋葉原事件について、自分が大学生の時に池袋で起きた通り魔事件を思い出した。

たしか池袋の加害者も進学校を出ながら、家庭環境のせいで人生が上手くいかず絶望に駆られての凶行だった。

 

そのとき僕は浪人させてもらって第一志望の大学に進学できて、万能感というか有頂天だったのが冷や水を浴びせられる形となったので覚えている。

 

だから秋葉原の加害者についても、彼と違ってきちんとした大学まで出たのにうだつが上がらない人間として、逆に他人事とは思えず複雑な思いだったし、インターネットで「死ぬなら一人で死ね」「殺すなら自分だけで済ませろよ」といった声を見るたびに、加害者に同情するような、擁護するようなある種的外れな怒りを抱いたものだった。

そういうことを言う人たち=社会が、彼らを犯罪者に変えてしまい、事件を生み出したんじゃないのか。

あの当時、僕は真面目にそう考えていたし、たとえ的外れでも、それは今でも変わらない。

 

一方で秋葉原の加害者に対して「俺たち負け組の怨嗟を社会に見せつけてくれた」とか「あいつは俺たちの十字架を背負って死刑台に登るんだ」といった、彼を英雄視する声をインターネットで見聞きするにつけ、格差の拡大が生んだひずみというか、一秒でも早くこの淀んだ層から抜け出したいという気持ちも強くなって、僕の中のルサンチマンは霧散した。

(「自動車免許を持ってる、トラック運転できる時点であいつは勝ち組じゃないか!」といった笑うような笑えないような声があったのも覚えている。ちなみに僕はその当時2tトラックを仕事で使っていて、運転席が高いから混み合う都心で先が見通せて便利だし、乗用車と違ってパワーがあるから坂道でも2速発進できるので好きだった)

 

「死ぬなら一人で死ね」がだめなのは、このように人を犯行に走らせるのもあるし、一方で、まじめな人を自殺に追い込むのもある。このような言葉を言えてしまう人は、絶対に気付かないだろうな。

気付いていたら出てくるはずのない言葉なのだ。

 

「そこに立ってそのときわかることばかりさ それが自分と思えたら軽くなる 歩ける」

CHAGE and ASKA NOT AT ALL