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知能検査

空虚な日々。

ヨドバシとかネットスーパーとか、そういったネット通販からの荷物が届くことで、自分がまだ世界に存在していることを自覚する。


ZWIFTでトレーニングをする。

すぐに終わる30分メニューか、ときには1時間メニューをこなした後に体重を量る。

ポカリスエット1リットルを飲み干しても体重がトレーニング前とそれほど変わらない。

どれだけの汗をかいているかというと、風呂上がりのような滴り方。


娘のお迎えに徒歩で向かうときも汗だくなので、やはり身体のバランス、自律神経が調子悪いのだろうか。

単に気温が上がって暑いのだとすれば、それはそうだ。


トレーニングで心拍数が1分間に170拍(170Beat Par Minute)を超えてくると、苦しくていつも目がチカチカしてくるような、ハンドルを握る両腕が痺れてくるような感覚になる。


最初はそれによって生きている実感を覚えた気がしていたけれど、きっとそれは錯覚で、どちらかというと生き急いでいるような、意地になってローラーを回しているような、そんな気持ちに気がついてしまった。


ZWIFTはトレーニング中、数分おきに英語でメッセージが出る。 

数十秒後に迫る次のワークセッションパートを案内してくれたり、「食らいつくんだ!」と発破をかけてくれたり、インターバルでの緩いセクションではそのワークアウトメニューの成立過程こぼれ話的なのがあったり、画面に次々に出てくるデジタルなメッセージに、自分の存在を確認したりするが、もちろん僕個人に特定して表示されているわけではなく、ただのプログラムにすぎない。


風に漂う風船、と考えてみたけれど違う。

深く暗い、静かな海の底の小石。

そんな気分だ。


退屈だ。

ただでさえここ数年退屈だった人生が、さらに退屈になった。



他者との交流が極端に減ると、こんな感覚になるのか。

僕は、広義の引きこもりか。

いや、僕は健康で、正常だ。

それに僕は社会に対するルサンチマンは抱えていない。



心療内科で知能検査を受けてきた。

立ち会う心理士の予約代で3,000円、テストを受験するのに3,400円、2週間後にテストの結果を聞くのに1,500円。

金は出ていくばかりで、しかもPCやローラー台のように形として残らない。


テストの内容は詳しくは書かないが、あの出来具合から結果も大体予想がつく。

僕の知っている自分のキャラクター/特性は単純な作業の反復には強いけれども、自分でルールを作って新しいことにクリエイティブに取り組むそういったところは弱い。


「この記号が次のグループの中にあるかどうかを答えなさい」とかクレペリン検査的なものなどあらかじめ決められたルールの下で単純作業の繰り返し、速く正確にといったテーマの作業ならそこそこ強くて、この類のテストなら制限時間内に最後まで行ける。


一方で、与えられた一連の図形から一定のルールを見出して次にくるものを予想するとか、積み木を使って指定された図形を組み立てるクリエイティブなテストとか、そういったものは特別苦手で時間がかかってしまう。


すでに出来上がっているルールの下で型にはまった仕事が向いていて、過去にないことに取り組んで新しい価値を生み出す仕事には向いていない。

テストの結果をそう予想する。


受検後の後出しジャンケンだけどやる前からそう思っているから、テストをやってみるとどうしてもそういう感想になってしまう。


最後に描画があったが、この評価ポイントも知っている。精神的に健康な人間はそうでない人と違ってどの部分をどのように描くか、明確なポイントがある。

金を払っているのに、知っている問題ばかりで残念過ぎる。


安くないお金を払っているのだから、どうせならこの予想を覆して斜め上の、想像もつかない新しい自分に出会いたい。